リアルタイムと共感性差恥

今回は、私のリアルタイムが苦手な感覚と共感性羞恥は関連付けられるんじゃないか、という超個人的な話です。

 

 

共感性羞恥・共感的羞恥は、日本人の10人に1人が当てはまるらしい。

共感性羞恥(きょうかんせいしゅうち)とは何かというと、

他人が恥をかく、叱責される、失笑を受ける、非難される・・・などの光景を実際に、あるいはドラマ、マンガなどを通じてみたときに、まるで自分がそれらを受けているように動揺、委縮し羞恥心を感じる現象。

はてなブログタグより

なお、2010年には共感だけではないという理由で「観察者羞恥」と名づけられています。

ようするに「いたたまれない」ってこと。病気でも悪いことでもない。分かる人には分かりそうだし、分からない人には分からなそうな感覚。

 

さすがにはてなブログタグを定義とするのはまずいのでサイトや文献を探しましたが、病気でもない各々による感覚を定義づけするほうが難しいようで、結局はてなブログタグでも間違ったことは言ってないみたいなので、まぁ、そういうことにします。

とりあえず1987年にMillerという人が「empathic embarrassment」と用語付けしたことが始まりのようです。

 

 ちなみにこの言葉のWikipediaは今のところ無いので、一般的な言葉ではないのかもしれない。論文も実験も行われていますが、言葉自体は造語説もある。

余談だけど、古語の「傍ら痛し」が同じ概念でおもしろいのでリンク貼っておきます。

kotobank.jp

 

 

まず、リアルタイムが苦手ってどういうことか

これこそ定義されてない。

説明が難しい部分ではあるんだけど、例を挙げると、テレビ番組全般・YouTubeのプレミア公開・アーティストのライブ(ライブ映像含む)などが苦手。

見たいテレビ番組は録画して、ツイッターで他の視聴者の反応を見ながらか、その番組で何をやっていたかを確認してから見ないと心が落ち着かない。録画していない番組もツイッターを見ながらか、別のことを考えたり作業しながらじゃないと見れない。生放送なんて見れたものじゃない。

 

で、じゃあなぜこうなっているかというと、『何が起こるか分からない』から。

 

先に視聴者やファンの反応を知っていれば、何が起こるかということと、それによる世間の評価を知っているから大半は見ることができる。大半にあたらないものが後で書く共感性羞恥につながるんだけど。

 

ジャニーズのあるグループを推していたとき、一度だけライブに行ったことがある。ジャニーズのライブはエンターテイメント性を求めて今までやったことのない演出を突然やったりするんだけど、それが私はダメだった。会場の高くまで上がるシャンデリアを模した乗り物から三人で身を乗り出して歌うとか、無理すぎて反射的に双眼鏡をのぞくのをやめた。別のツアーでステージが360度前転すると聞いた日には、行かなくてよかったとまで思った。

彼らの冠番組でやっていた約5分尺のミニゲームでは彼の番になると目を逸らして、メンバーたちの反応で彼が成功したか失敗したか分かってから、成功したなら巻き戻して見ていた。そもそも見ずにツイッターでファンの反応を見てから、というまさに上記のようにもしていた。

 

 

自分の共感性羞恥がどのくらいか

これが人による。そこまで気にしないって人もいれば、敏感な人もいる。

で、じゃあ私はどうなんだと。

 

ドッキリ企画、体を張る芸能人、スベっている芸人、反応の薄いアーティストの煽り、トラブルで慌てている店員、カッコつけてキラキラした写真を載せる知り合い、演技がイマイチな人の出ているドラマ、ぐだぐだな即興ラップ、病気や災害のドキュメンタリー、真偽のはっきりしないことを堂々と話す人、司会者を遮って持論を展開する大御所や政治家、授業で問題の答えが分からずどもる友人、アポなし、駆け込み電車をする人、誰かをネット上で叩く人、等々。

具体的な番組名を言ってしまうと、モニタリングはほとんど見れない。小さい頃は全く気にしなかったのに、高校生になってから改めて見たらドラえもんサザエさんクレヨンしんちゃんも無理。

 

私がリビングで一人のときを狙ってライブ映像を見ていると家族が途中からなんとなく一緒に見始めて、普通そうにしている家族に私が勝手にハラハラしているってことも多い。

 

 

では、この二つがどうつながるのか

先ほどの、ミニゲームの結果を先に知っておく、というもの。これが流れとしては一番分かりやすいと思う。彼が失敗したら恥ずかしい、見たくない、だから先に結果を知っておく。こういうことだ。

 

流れ的にあの人スベるだろうな、失敗するだろうな、などを想像して目を逸らす(共感性羞恥)

何が起こるか分からないものが苦手(リアルタイムが苦手という感覚)

 

全ての事象にとは言えないが、二つの感覚は関連付けられるといえるだろう。

 

 

 

 

ただ、これが本当に「共感」なのかってとこがあるから、「観察者羞恥」という言葉がある。

世界の常識における「共感」とは、相手と自分の考えが一致することだと言えるだろう。

果たして、今まで私が書いてきた「羞恥」はその人も「羞恥」と感じているか。途中で列挙したものを見れば一目瞭然で、必ずしもそんなことはない。私が勝手に「その人の立場になった場合を想像」して憂鬱になっているだけで。

そう考えると、確かに「観察者羞恥」の方が適当な気がする。

まぁ、でも、観察者羞恥ってちょっと厨二感あって口に出しにくいですね。